「さまよう刃」を観てきた/曽野綾子ミニスカ騒動について

 例の如く小さい映画館に行ってきた。今回の作品は原作東野圭吾、主演寺尾聰の「さまよう刃」だった。
 主人公は妻を亡くして中学生の娘と2人暮らし。娘が学校の帰りに掠われ、強姦されて殺されてしまう。主人公の家に犯人2人の名前を告げる密告の電話があり、主人公はその1人を家で待ち伏せて殺す。もう1人も殺すために探して追う主人公を、殺人犯として、そして次の殺人を止めるため警察が追う。
 最近曽野綾子のコラムに端を発する論争を読む機会が多かったため、普段以上に考えさせられる映画だった。この機会に自分なりに考えを整理してみようと思う。

 まず「自衛も必要だ」という論調について、その是非はともかく被害者や被害者の家族にはとても言えない。言ってはいけないと思う。

 では自衛の呼びかけは無意味か?というと、その内容にも依ると思う。映画で被害にあった主人公の娘は、夜に一人で帰宅途中に車に無理矢理連れ込まれて掠われた。この状況の場合、人通りの無い道を一人で歩いていなかったら、被害に遭わなかった可能性は高い。自衛は物理的には可能だ。しかし、常に完璧な自衛を怠らないことは可能か?といえば、現実的ではない。おそらく多くの日本人は、そこまで強い危機感を持っていないはずだ。
「暗い道を1人で歩くのは危険だ」という呼びかけを行って注意を喚起することで、多少は被害を減らすことは出来るだろうから全く無意味ではない。しかし被害をゼロにすることは不可能である。従って、「自衛が足りなかったために被害にあった」と決めつけるのは公平ではない。被害者も自分で必要だと思うレベルの自衛はしていたはずなのだから。

 さて、ミニスカ等の服装の危険性についてだが、少なくとも日本では派手だったり露出度の高い服装をしている方が被害に遭いやすいというデータは無いようである。海外についてはよく分からない。
 ただ、推理小説などで娼婦殺しというのはよく扱われる題材である。娼婦が襲われて殺されるのは派手な服装をしているからだろうか?おそらくそうではない。その理由は、無警戒に男に近づいて2人っきりになり、襲われやすい状況になりやすいことにあると思う。これは同様に「男を誘うつもりで」派手な服装をしている女性にも言えるのではないだろうか。服装に因るのではなく、男に対して無警戒なところにつけ込まれて被害に遭いやすいということだ。
 であれば、ミニスカを履いていたとしても、男を誘う意図などなく、見知らぬ男に(むしろ知人にも)気を許さないのであれば、被害に遭いやすいと言える根拠はない。曽野綾子にはミニスカは男を誘っているという認識があるため、そこがイコールなのかもしれないが。

 正直なところ、自衛論を支持する(ミニスカはともかく)ことがセカンドレイプという言い方をされて戸惑った。全くそんな意識は無かったからだ。というよりも、被害者の存在が全く認識の外にあったと言うべきか。また、自衛論や自己責任論を被害者に直接ぶつけることは明らかに不当だと思うが、相手を特定せずに広く世間に訴えることまで悪いか、と考えると、やはり納得は出来ていない。ただ、全面的に正しいとまでも思えないので、これはすぐに結論は出せない。時間をかけて考えていきたい。結論は出ないが、そのように感じる人が居るということは心に留めておく。

 無意識であり罪悪感も無いだけに、根が深い問題なのだろう。「ちびくろさんぼ」の絶版に関する議論なども似たような構造だったのかもしれない。子供の頃は黒人差別の意図など全く感じずに読んでいたし、なんでそこまで問題にするのかが理解できなかったが、差別されている側からすればその無神経さこそが許せないのだろう。

さまよう刃 (角川文庫)

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